2011年6月10日

7年ぶりの帰国

父親危篤の知らせを受けたのは、今月15日に控えた100年に一度の大きなお祭りの準備でお寺に詰めていた時のこと、泣き出した私をあわてて家につれて帰るワヤン…お寺では感情を荒げてはいけないのでした。

奇跡の知らせがあって3日後、やはり回復が思わしくないということになり、即帰国を決め、出国手続(今のビザを有効にするためリエントリーの手続する必要がある)に丸1日を要し、5日後にバリを経つことになりました。 その頃、医師からあと24~36時間と二度目の余命が告げられていたことを知る由もなく…

帰国は7年ぶり、なのに何の心構えもなく、普段斜めがけにして持ち歩いてるバッグにパスポートを突っ込んで、普段バイクに乗る時専用のなんちゃってcrocsシューズをはき、いきなり飛行機に乗ることになったせいか、初海外旅行に出かける人のような緊張感、空港内も変わっててオロオロ…しかもガルーダ航空は3時間近くも遅れ、朝到着予定がお昼を過ぎることになり病院に直行することに…
奈良で空港バスを降りた私、何か様子が違う…すんごいフワフワして地に足がつかないと言うのか、どっぷりバリの生活に浸かっていた私は異国人オーラを放ちまくってるような、自分がとてもまわりから浮いてるような気がして、気恥ずかしいような妙な感覚。
急なことだったし地元の友達にも知らせていなかったので、もし誰かに会っても私がいるはずがないわけで『純に似た東南アジア人』としか思わへんやろうなぁとか、最寄り駅までの電車の中でそんなことばかり考えていました。

父の意識は戻っていないのですが、どんな病人でも耳だけは聞こえてるらしいって友達から聞いていたので、病院に着いたらすぐ話かけてみました、7年ぶりの再会です。
そしたら、見えてないけど瞼を開けて、口をモゴモゴさせ、涙がポロリと落ちたのです、あぁやっぱり聞こえてる!!と信じて、亡くなるまでの18日間毎日話しかけていました。

子供たちは学年末(インドネシアは7月から新学期)で進級テスト(小学校から落第がある!!)が間近だったこともあり、ワヤンとともにバリに残っていました。 そのテストが急遽翌週に決まったので、その週末に一度バリに戻ろうかと、母が父にその旨を伝えた2日後父は静かに息を引き取りました。 父を送った後すぐにバリに戻り、7年ぶりの日本は家と病院の往復で終わりました。

どこにも行けず、誰にも会えずだったけど、日本の家族と一緒に過ごした3週間はとてもあたたかな時間で、父がくれたプレゼントだと思って、今も心の支えです。

ありがとう、お父さん。

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