2011年6月27日

バリ文化 我が村最大のお祭り11日目(最終日):ゴア・ラワ寺院へ、そのあと夜中まで…

大きなお祭りの最後は必ず海沿いのお寺に行きます。
今回は観光地でも有名な『ゴア・ラワ寺院』、”ゴア”は洞窟、”ラワ”はコウモリ。
上写真の右側奥に見える洞窟に無数のコウモリがぶら下がっています。





すぐ目の前が海なので、帰り際子供たちは砂遊び。









そして、儀式は夜中12時にクライマックス。

今回特別に作られたお供え物を、お坊さんがナイフを入れた後、土に埋めるのです。
前もって掘られた穴は大人の背丈ほどある深いもの。







そこに15人がかりくらいでロープを使ってゆっくり降ろしていきました。











たぶんもう二度と見ることはできない貴重な儀式でした。










そして、掘り出した土をまた上からかける、これが一番大変な作業のようでした。









2011年6月26日

バリ文化 我が村最大のお祭り10日目:聖水の作り方

初めて知った『聖水』(=ティルタ)を作るということ。
今までずーっと、『聖水』とは聖なる場所に湧く水にマントラを唱えて聖なる花を浮かべていい香りの水だと、漠然とそう思っていたのです。
聖水は、お祈りにかかせないもので、お祈りの前に清めのために頭と手にふりかけてもらい、お祈りの後もふりかけたり飲んだりするのですが…時々薄茶色になってる時もあって、正直なところ浮かべてる花が傷んでるのかなとも思っていたのですが、全然違ったのです。
なんと、すごい手間暇かけて香りのいい物を燻してつけた匂いと色だったのです。
それを今回初めて見て、そんなに手が込んでるとは本当に全く思ってなかたので、ただただびっくり、目が釘付けになっている私、手伝うことになってしまったのです。


下準備


①ミニャン・マドゥ(右下:甘い香りの石)、オンデム(左下:貝殻のようなもの)、スタンギ(左上:木の皮)、トゥラン・ミミ(右上:魚の骨)を小さく砕く





②白砂糖と①を混ぜる





                                                                                 
作り方
①やしの実の殻で炭を作り、その上にジャックフルーツ(インドネシア名:ナンカ)を小さく裂いて載せ、仰いで火を熾し炭を赤くする。






②下準備した白砂糖をスプーン1杯ほど振り入れると、火がつく。











③そこに素焼きの鉢をかぶせ底があったまるまで内側を燻す。








④燻したばかりの鉢に聖水を移し入れ、これを二つの鉢で10回くらい繰り返し、最後は布で漉してできあがり。





こんなに手間をかけて作った聖水、翌日のお祈りのあと子供たちに『ママが作ったティルタやで』と自慢しながらいただき、すごくありがたく味わいました。

2011年6月25日

バリ文化 我が村最大のお祭り9日目:ブサキ寺院へ

村人いっぱい、トラック3台(荷台に立って乗るのだ!!)と車10台くらいに分乗、ガムラン隊もトラックの荷台で演奏しながら、バリ・ヒンドゥ教寺院総本山の『ブサキ寺院』へ行き、舞踊も奉納、皆でお祈りしました。
ブサキ寺院は、バリの最高峰『アグン山』(3142m)の中腹にあるので、見晴らしはもちろんのこと、天気がよければお寺のバックに山頂を望むことができ、最高の景色なのでいつもそれを楽しみに行くのですが…残念ながら今回は雲に覆われたままだったけど、やっぱりブサキ寺院は気持ちいいところです。

2011年6月23日

バリ文化 我が村最大のお祭り8日目:お供え物大行列

村の南にあるお寺から北の方にあるお寺に大行列しました。普通なら歩いて10分ほどの距離のところを20分以上かかりました。



この儀式専用のゴンベリ隊はウブドから来て下さいました。












お坊さんも列を作ります。










バビグリン(豚の丸焼き)はお祭り料理の象徴。











同じお菓子をたっくさんのせるお供え物も。










鶏1羽+果物+お菓子、全部で5~6kgはあるかと思う頭上のお供え物、皆は片手を添えるくらいなのに、私は両手でわしづかみ…しびれました。 まだまだバリ嫁修行中…


2011年6月22日

バリ撮影 『知っとこ』世界の朝ごはん

6月25日(土)朝7:30~TBS系列で放送の『知っとこ』”世界の朝ごはん”のコーナーでバリ島が紹介されます。
ぜひご覧下さい!!

※2009年9月26日放送のバリ島”朝ごはん”レシピ紹介
www.mbs.jp/shittoko/
 アヤム・サンバル・ムンタ(鶏肉の生チリソース和え)
 ガドガド(茹で野菜のピーナッツソースがけ)
 ピサン・ゴレン(バナナのてんぷら)

2011年6月20日

バリ文化 我が村最大のお祭り6日目:村周辺を大行進

すんごい歩いた、たぶん2時間弱くらい…

今回のお祭りは村とその周辺の平穏も祈るとされているので、お祓いの目的で村の隅々まで歩いたあと、村の入り口をぐるっとまわりました。

ガムラン隊もずっと音楽を奏でながら、写真(下)のようなお菓子や、食べ物でできたバロン(獅子舞)などもお供え物として担ぎ、最後に写真(上)の丘を越えるのですが、普通に歩いててもきつい坂だったので、担ぎ手はさぞかしヘロヘロだろうと思いきや…

ワヤンも神輿のようなものを担いでいたのだけど、こんな儀式は初めての経験だったので、感動してウルウルしてたのだそう…

2011年6月15日

バリ文化 我が村最大のお祭り始まる


2月から準備をしていた我が村最大の100年に一度のお祭り『KARYA AGUNG MAMUNGKAH MUPUK PEDAGINGAN PENEDUH JAGAT, PENYEGJEG JAGAT NGUSABA DESA, NGUSABA NINI, RING PURA PUSEH, PURA DESA, DESA PEKRAMAN BUKIT BATU』がいよいよ始まりました。
お寺の改築と、地球そして村とその周辺の平和を祈る儀式だそうです。
境内には見たことのないお供え物が所狭しと並んでいて(写真大:バロンとよばれるこの獅子舞は全て稲や果物等の食べ物で作られている)、封鎖された道路まで人があふれました(写真小)。
これから11日間いろんな儀式が続くそうです。

ところで、バリのお祭りでは無事に終わるように、前もって悪霊にお供えをする儀式が必ずあります。
昨日もあって、生け贄にした牛のお肉を皆少しずつおすそわけしてもらったのですが…
普段バリのスーパーで売られてる牛肉はすごく臭いので覚悟していたら、全く臭わなくてびっくり、新鮮だとこうなんや…と思い知らされました。
『焼肉のたれ』でいただきました、文句なしに美味しかったです、ごちそうさまでした。

2011年6月10日

7年ぶりの帰国

父親危篤の知らせを受けたのは、今月15日に控えた100年に一度の大きなお祭りの準備でお寺に詰めていた時のこと、泣き出した私をあわてて家につれて帰るワヤン…お寺では感情を荒げてはいけないのでした。

奇跡の知らせがあって3日後、やはり回復が思わしくないということになり、即帰国を決め、出国手続(今のビザを有効にするためリエントリーの手続する必要がある)に丸1日を要し、5日後にバリを経つことになりました。 その頃、医師からあと24~36時間と二度目の余命が告げられていたことを知る由もなく…

帰国は7年ぶり、なのに何の心構えもなく、普段斜めがけにして持ち歩いてるバッグにパスポートを突っ込んで、普段バイクに乗る時専用のなんちゃってcrocsシューズをはき、いきなり飛行機に乗ることになったせいか、初海外旅行に出かける人のような緊張感、空港内も変わっててオロオロ…しかもガルーダ航空は3時間近くも遅れ、朝到着予定がお昼を過ぎることになり病院に直行することに…
奈良で空港バスを降りた私、何か様子が違う…すんごいフワフワして地に足がつかないと言うのか、どっぷりバリの生活に浸かっていた私は異国人オーラを放ちまくってるような、自分がとてもまわりから浮いてるような気がして、気恥ずかしいような妙な感覚。
急なことだったし地元の友達にも知らせていなかったので、もし誰かに会っても私がいるはずがないわけで『純に似た東南アジア人』としか思わへんやろうなぁとか、最寄り駅までの電車の中でそんなことばかり考えていました。

父の意識は戻っていないのですが、どんな病人でも耳だけは聞こえてるらしいって友達から聞いていたので、病院に着いたらすぐ話かけてみました、7年ぶりの再会です。
そしたら、見えてないけど瞼を開けて、口をモゴモゴさせ、涙がポロリと落ちたのです、あぁやっぱり聞こえてる!!と信じて、亡くなるまでの18日間毎日話しかけていました。

子供たちは学年末(インドネシアは7月から新学期)で進級テスト(小学校から落第がある!!)が間近だったこともあり、ワヤンとともにバリに残っていました。 そのテストが急遽翌週に決まったので、その週末に一度バリに戻ろうかと、母が父にその旨を伝えた2日後父は静かに息を引き取りました。 父を送った後すぐにバリに戻り、7年ぶりの日本は家と病院の往復で終わりました。

どこにも行けず、誰にも会えずだったけど、日本の家族と一緒に過ごした3週間はとてもあたたかな時間で、父がくれたプレゼントだと思って、今も心の支えです。

ありがとう、お父さん。