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孫(息子)に抱かれた義父 |
ワヤンのお父さんが15日に亡くなった、日本では敬老の日だから命日を忘れないでいられそう。
食べなくなって入退院を繰り返し、病院で眠るように息を引き取った義父。最期はなんとワヤンと2人っきり、ワヤンは病室でうたた寝をし、お父さんが自分で起きてバナナを食べる夢を見てたらしい。
92歳だったみたい(^_^:)。私が一人で義父の病室にいた時、看護士さんにお父さん何歳?と訊かれ、わからないけどたぶん80代と応えながら、義妹から預かったバッグを覗くと実家の家族票があったので見てみたら、1930年生まれとあり看護士さんと数えてビックリ。
義母は2006年になくなっていて、私はその頃まだ子供が小さくて病院にも行けなかったので、今回初めていろんなことに携わることになった。
バリでは火葬して遺灰は海に流し、生まれ変わりを信じているので魂の儀式までする。だけど一連の儀式にお金がかかるので一旦埋めておいて、村ごとで3~4年に一度まとめて掘り起こし合同お葬式をするのが一般的だけど、タイミングによってはとりあえず火葬しておいて儀式を一緒にしたり、近年では遠くに住んでいたりする人は準備を手伝えないからと葬儀屋で済ませるパターンとかいろいろで、今回は火葬式まで済ませることになり、お坊さんに訊き22日に決まる。
それまで病院の霊安室に預かってもらう手続をし、義姉(と言っても年下😅)がサロンやバスタオル石鹸等を用意していた。病室に迎えに来られた時には続々と家族が集まっていて、霊安室の沐浴(マンディ)台に乗せられた義父を家族皆で洗う。サロンで全身を包み、上からまたサロンをかけ何故か新しいバスタオルをお腹にかけお供えを置いてあとに。それからは毎日誰かが行って3食のご飯と水とコーヒーとお菓子を霊安室の入口にお供えしていた。
亡くなった日から実家には村の人が弔問に来られ、翌日からは毎日村の人たちに手伝ってもらいながら、女性陣は火葬式のお供えの準備、男性陣は遺体を乗せる台や運ぶ台作り。私はこれでも家族なので裏方にまわり、コーヒーを作って出したり洗い物、お供え物の足りない材料の買い足しのお使いも、今まではその材料名前すら(数え切れない程ある)覚えられなくて役立たずだったのが、今はチャットがあるおかげで書いて送ってもらって、店で通じなければ(バリ語は発音が難しい)見せて買い物できるようになり、バイクで走りまわっていた。
義父は火葬式前日に実家に帰宅、またマンディさせて白い布でくるみ、寂しがらせないよう一晩中賑やかに過ごす。
翌朝火葬式当日、男性陣が作った台の上でお坊さんのマントラのもと、また義父を皆で最後のマンディをさせる。そして白い布でくるんで真新しい正装を上に置いて儀式用の台に戻しお祈り、村の火葬場(と言っても原っぱ)へアンクルンというガムラン楽器の演奏と伴に村の人全員で行列、火葬。
遺骨を皆で拾い集めて水で洗い、次の儀式を待つのが写真の息子。日本で里帰り出産し、息子が生後3ヶ月でバリに戻ってから私たちは同じ村の端にある今の新居に住み始め、義父母にとって息子は7人めの孫だったのに、何人いてもやっぱり見たいのよ~としょっちゅう歩いてここまで息子を抱きに来てくれた義父母を思い出す。
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遺影に使った写真、弟がソックリになってきた! 大好きだった闘鶏用のAyamと一緒に |
Bapak(父)、大好きだったIbu(母)と向こうでまた仲良くね、そして孫が1人増えたこと、ひ孫が5人もいることを話してあげてね。
Terima kasih atas selalu sayang kami🙏
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